俳優や司会者として活躍した柳生博さん(85)が4月16日、老衰のため亡くなりました。
柳生博さんは、時代劇やサスペンスドラマなど数多くの作品に出演したほか、
人気番組「100万円クイズハンター」の司会などを務めました。
昭和を代表する偉大な俳優の訃報に芸能界では悲しんでいる方もたくさんいるようです。
今回は、柳生博さんの経歴や家族(嫁や子供)についてまとめました。
柳生博のwiki経歴は?
![柳生博](https://wp2019.jp/wp-content/uploads/2022/04/L_W75_0045-3-500x333.jpg)
- 名前:柳生博 (やぎゅう ひろし)
- 生年月日:1937年1月7日
- 出生地:茨城県稲敷群舟島村 (現在の阿見町)
- 職業:俳優・司会者・タレント・声優
- 学歴:茨城県立土浦第一高等学校卒業、東京商船大学中退
柳生博さんの経歴をみていきたいと思います。
茨城県稲敷群舟島村に生まれた柳生博さんですが、とてもすごいお家柄の方のようです。
【家系図】柳生博は武将・柳生宗厳の末裔
柳生博さんは柳生新陰流の有名な剣術家・柳生宗厳(1527年~1606年)の末裔として
1937年茨城県の旧家に生まれました。
柳生宗厳とは戦国時代から江戸時代初期に活躍した武将で、
戦国時代を舞台にした時代劇やアニメにも出てくるほど有名な武士です。
こちらは柳生の家系図になります。
![柳生博 家系図](https://wp2019.jp/wp-content/uploads/2022/04/image-500x353.jpg)
柳生家の歴史は大和国(現在の奈良県)から始まっており、現在も柳生古城や古墳、
ゆかりのある神社などが観光スポットとなっています。
戦国時代から続く歴史のある家、先祖が武将とは柳生博さん生まれからすごい方ですね。
船員を諦め俳優に
将来は船員志望で東京商船大学へ進学しましたが、視力低下のため断念し、中退したようです。
船員になる事をあきらめた柳生博さんは、役者を志すようになり、劇団俳優座に入所しています。
俳優として脚光を浴びたのが、1977年放送のNHK朝ドラ「いちばん星」、
柳生博さんは39歳のときに野口雨情役として出演し、全国的に有名になります。
その後、俳優のみならず、バラエティ番組の司会としても活躍し、
1981年から12年続いた長寿番組、「ハンターチャンス!」の決め台詞でお馴染みの
「100万円クイズハンター」で司会を務めています。
俳優、司会以外にも映画の吹き替えやナレーションなども多数こなされています。
柳生博さんは1970年末頃から山梨県北巨摩郡大泉村(現在の北杜市大泉町)に転居し、
ギャラリーとレストランを備えた八ヶ岳倶楽部を開設しました。
この場所は柳生博さんにとって思い入れのある場所のようで、
柳生博さんの家系には「男子は12歳になったら一人旅をさせよ」という柳生家のしきたりがあり、
中学生(12歳)の時に、山梨県大泉村西井出・西沢を一人旅で訪れ、魅了されたようです。
八ヶ岳倶楽部のある西沢には柳生が中学生の頃一人旅で探訪している。この一人旅は、柳生家のしきたりである「男子は12歳になったら一人旅をさせる」というものに基づいたものという。このときの経験が、のち西沢に居を構え八ヶ岳倶楽部を設ける原体験となった
柳生博 『森と暮らす森に学ぶ』 1994年、講談社刊
2000年頃からは俳優業を減らし、作庭家(庭師)としての活動や、
第5代日本野鳥の会会長(後に名誉会長)を務め、自然愛好家でもあります。
柳生博さんの経歴をみていきました。
俳優だけでなく、司会や声優業としても活躍し、芸能活動以外では、
八ヶ岳倶楽部を開設し、何もない土地に建物や散策路や庭などはすべて柳生博さんが自ら手がけているそうです。
なんでもこなす多才な方なのですね。
一方で柳生博さんの恋愛や結婚についてはどうだったのでしょうか。
柳生博さんの妻や子供などの家族についてまとめました。
柳生博の嫁は女優・二階堂有希子
![柳生博 二階堂有希子](https://wp2019.jp/wp-content/uploads/2022/04/20180926s00041000103000p_view-500x380.jpg)
二階堂有希子さんといえば、アニメ「ルパン三世」の初代 峰不二子の声優として有名ですね。
- 名前:二階堂有希子
- 本名:柳生加津子
- 生年月日:1940年10月27日
- 年齢:81歳(2022年4月現在)
- 出生地:東京都杉並区
- 学歴:東京女子館高等学校卒業
二階堂有希子さんの経歴を調べましたが芸能界に入る前の経歴は、
東京女子館高等学校を卒業しているという情報の他は出てきませんでした。
二階堂有希子は女優を志し、1959年に劇団俳優座の養成所に入所します。
その後1960年代から70年代のテレビドラマや映画などに数多く出演しています。
当時人気のあったボウリングのドラマ「美しきレンジャー」や特撮ヒロイン「コメットさん」が有名で、
この2作品には柳生博さんも出演しており、お二人は共演しています。
声優業としては、海外ドラマ「ルート66」の吹き替えを担当し、それ以降声優としても活動していました。
アニメ「ルパン三世」の初代 峰不二子を演じたのは二階堂有希子さんが31歳の時でした。(1971年~1972年)
誰もが認める美女、峰不二子のイメージのそのままですね。
声優業については、「意外と面白いし勉強になるんだなあ」と感じ、趣味的に始めたそうです。
女優としては、本人の持つイメージから、純情な役を演じることが多かったようです。
二階堂有希子さんは1966年に柳生博さんは結婚し、2人の子供がいます。
出産を機に二階堂有希子さんは芸能界を引退し、その後は夫と共に山梨県北杜市大泉町の
園芸施設「八ヶ岳倶楽部」の運営に携わっていました。
2013年に認知症を発症し、現在は特別養護老人ホームに入所しているようです。
柳生博はヒモだった!?2人の馴れ初めは?
お二人の馴れ初めについて、柳生博さんは2019年11月13日放送の「徹子の部屋」で語っています。
出会いは1959年に劇団「俳優座」の養成所で、お二人は同期だったようです。
茨城から東京へ出てきた柳生博さんは、東京出身の二階堂有希子さんに一目惚れ、
あまりの美しさに、命懸けで口説いたそうです。
その後、柳生博さんの猛アタックで交際スタートしたそうです。
しかし、柳生博さんはデビュー後しばらくはほとんど仕事がなかったようです。
一方で、二階堂有希子さんはデビュー後に女優として大ブレイクし彼女の収入で生活するようになり、
一部では、柳生博さんは「大女優のヒモ」だという噂もされる辛い時期だったそうです。
そんな辛い時期にも、二階堂有希子さんは励まし応援し続けたそうです。
「あなたならきっと大丈夫よ。私はあなたの才能を信じているから」
とても心強いですよね。
二階堂有希子さんの支えもあって、のちに柳生博さんも俳優として成功されたのでしょうね。
そんな中、柳生博さんは自宅で麻雀三昧で、毎日のように朝まで麻雀していたようです。
麻雀仲間には、俳優の児玉清さんや作家の早坂暁さんがいたそうで超豪華メンバーですね。
それでも、二階堂有希子さんは麻雀をする柳生博さんにくっついて眠っていたそうということで、
二階堂有希子さんは本当に柳生博さんのことが好きで信じていたのでしょうね。
柳生博さんの子供は?
柳生博さんには息子が2人いましたが、長男は2015年に亡くなっているようです。
長男の死因は何で、次男は現在何をされているのでしょうか。
お一人ずつ見ていきたいと思います。
長男はタレントの柳生真吾
![柳生真吾 柳生博](https://wp2019.jp/wp-content/uploads/2022/04/スクリーンショット-2022-04-21-163749-500x329.png)
柳生家の長男は柳生真吾さんといい、園芸家として活躍されていたそうです。
父の柳生博さんが山梨県北杜市に創設した、園芸施設「八ヶ岳倶楽部」の跡を継ぎ、
代表としても活動されていました。
2000年には、NHKの園芸番組「趣味の園芸」のキャスターとして活動し、
2007年からは、NHK教育テレビ「モリゾー・キッコロ 森へいこうよ!」に出演した経験もあります。
2015年に咽頭がんにより、47歳の若さで亡くなりました。
結婚もされ、お子さんも4人いるそうです。
息子に先立たれた柳生博さんの悲しみは測り知れないものでしょう。
次男・柳生宗助は八ヶ岳倶楽部社長
![柳生宗助 柳生博](https://wp2019.jp/wp-content/uploads/2022/04/スクリーンショット-2022-04-21-164605-500x304.png)
柳生家の次男である柳生宗助さんは、亡くなった兄の跡を継ぎ、八ヶ岳倶楽部社長として活躍されているようです。
柳生宗助さんはとても感じのよい、穏やかな方のようで、そのもとで働く若いスタッフたちの接客の様子も、
非常に懇切丁寧で、八ヶ岳倶楽部の評判も上々のようです。
八ヶ岳倶楽部のフェイスブックでは、森のいろんな植物や動物の写真やコメントをアップしており、
父親の柳生博さんと同じく、自然が大好きなようです。
まとめ
俳優や司会者として活躍していた柳生博さんが亡くなられました。
偉大な俳優の訃報に悲しむ声が多くあがっています。
ご冥福をお祈りいたします。
今回は柳生博さんの経歴や家族(妻・子供)についてまとめました。
長男の柳生真吾さんを若くして亡くし、妻の二階堂有希子さんは認知症と、
柳生博さんは辛い思いをたくさんされてきたようです。
柳生博さんの思いの詰まった、八ヶ岳倶楽部を柳生家で代々継いでいってほしいですね。