日本代表のアクションスターとして名を馳せた千葉真一さん。
海外では、「サニー千葉」と言う名前で親しまれてきました。
今回は、そんな名俳優の千葉真一さんの若い頃についてまとめていきたいと思います。
若い頃を見ると、息子の新田真剣佑さんにそっくりなんですよ…!
千葉真一のプロフィール
名前 | 千葉真一 |
---|---|
本名 | 前田禎穂(まえだ・さだほ) |
生年月日 | 1939年1月22日 |
出身地 | 福岡県福岡市博多区 |
身長・血液型 | 176cm・O型 |
2021年8月19日、82歳でお亡くなりなった千葉真一さん。
芸能生活は60年を越え、映画やテレビドラマ、演劇などで計1,500本以上の作品に出演した名俳優です。
アクロバットなスタントや殺陣に定評があり、アクションスターの元祖とも言える存在でした。
役者以外にも、監督やプロデュース業など幅広く活躍し、ジャパンアクションクラブ (JAC) の創始者で、俳優・スタントマンの育成もしていました。
亡くなる直前にもインタビューで以下のように語っていましたよ。
「若い世代に、僕が学んできたこと、経験してきたことを伝えたい。そのために……秘策を練っていますよ」
では、彼の若い頃を出演作品とともに振り返っていきたいと思います。
【画像】千葉真一の若い頃を出演作とともに振り返る
幼少期はオリンピックを目指す
千葉さんは、福岡県福岡市博多区生まれ。
父親は大刀洗町の陸軍飛行戦隊の軍人、母親は熊本県出身で陸上競技をしていました。
中学生から器械体操を始め、千葉県立木更津一高へ入学後、
- 1年生で全国大会上位入賞
- 3年生で全国大会優勝
1957年には、日本体育大学体育学部体育学科に進学しました。
オリンピック出場を目指していた千葉さんでしたが、大学2年生の時に跳馬を練習中に着地で失敗し、腰・両膝を痛め、選手生活は終わってしまいます。
大学については、学費を工面できず退学を余儀なくされています。
夢絶たれ役者の道へ
夢絶たれた千葉さんは、将来を模索し始めます。
駅で偶然「東映第6期ニューフェイス募集!」のポスターを見かけ、東映ニューフェイスを受験。
2万6千人の応募からトップの成績で合格を果たしました。
1959年(20歳前後)、千葉真一さんは大学を中退して、東映に入社しました。
1960年1月7日にテレビドラマ「新 七色仮面」の二代目、蘭光太郎役として主演デビューします。
千葉さんの父親は芸能界入りを猛烈に反対して勘当していましたが、彼の出演する作品を見て考えを改めたそうですよ。
同年、テレビドラマ「アラーの使者」でも主演に抜擢されています。
期待の新人として多くの作品に出演
1961年(22歳前後)、「風来坊探偵 赤い谷の惨劇」に主演。
吹き替えなしでスタントをこなすことから、「アクションができる素材に演技の磨きを増せば」と期待される新人だったそうです。
1962年、映画「事件記者シリーズ」の第1作「恐怖の魔女」に主演。
1963年に「事件記者シリーズ」の第2作「殺人鬼の誘惑」、「柔道一代シリーズ」にも主演しています。
同年、シングル「男一匹生きるなら」をリリースして歌手デビューも果たしています。
1966年、映画「カミカゼ野郎 真昼の決斗」(日台合作)、映画「海底大戦争」(日米合作)にそれぞれ主演し、国際的にも活動を開始。
その他1965〜1968年にかけて、
- 「くらやみ五段」
- 「太陽に突っ走れ」
- 「子守唄シリーズ」
- 「河内遊侠伝」
- 「陸軍諜報33」
など次々と主演しました。
若い頃が新田真剣佑とそっくり!
そして千葉真一さんの若い頃は、息子の真剣佑とそっくりなんです。
濃い顔、すごい似てますよねーー!!
そして、こちらは白黒ですが、本当に似てます!
共演がきっかけで野際陽子と結婚
1968年(29歳前後)からは、テレビドラマ「キイハンター」に主演。
大ヒットした本格的なアクションドラマでなんと全262話!
最盛期には視聴率30%を越えていた事も。
千葉さんの見たこともないスーパーアクションに魅了されたファンは多く、一躍国民的アイドルに躍り出ました。
また、女優の野際陽子さんとは、この時に共演したことがきっかけで結婚に至っています。
格闘映画にも続々主演
1970年(31歳前後)、アクションや擬斗を演じる相手やスタントマンの不足に悩み、育成のため、ジャパンアクションクラブ (JAC ) を設立しました。
役者としても好調で、1973年の映画「仁義なき戦い 広島死闘篇」で演じた大友勝利役はシリーズ中1, 2を争う名キャラクターとして人気に。
後のヤクザ映画のヤクザ役のひな型になりました。
1973年に10年ぶりの格闘映画「ボディガード牙シリーズ」、「殺人拳シリーズ」の主演が続き、格闘映画でも活躍をしました。
特に、カラテをメインにした格闘映画は世界的に大ヒットし、この頃から海外ではSonny Chiba (サニー ちば)という名前で認知されるようになります。
1974年には、アメリカ合衆国で有名な週刊誌「Variety 」で千葉さんのことが掲載されあたのですが、同誌が初めて日本映画を取り上げるという快挙を成し遂げています。
1976年の映画「沖縄やくざ戦争」では、京都市民映画祭の主演男優賞を受賞。
時代劇への進出
アクションスターとして活躍していた千葉さんでしたが、1978年から本格的に時代劇へ進出。
主演映画「柳生一族の陰謀」は興行収入30億円以上の記録的大ヒットし、1979年に第2回日本アカデミー賞の優秀助演男優賞を受賞しています。
その後も続々と時代劇に出演。
- 1978年:映画「赤穂城断絶」
- 1981年:映画「魔界転生」
- 1983年:「里見八犬伝」
- 1980〜1983年:「柳生あばれ旅シリーズ」
- 1980〜1985年:「影の軍団シリーズ」
1979年には、映画「戦国自衛隊」で、主演と日本映画初のアクション監督を兼務し、配給収入で13.5億円のヒット。
1989年(50歳前後)の「将軍家光の乱心 激突」では再びアクション監督と俳優を兼務。
この作品で、第39回ベルリン国際映画祭に招待されれいます。
この頃は演劇にも進出していて、ミュージカル「ゆかいな海賊大冒険』(1982〜1984年)、「酔いどれ公爵」(1985年)など複数の作品を企画・演出・主演し増田。
その他、ホームドラマや歌手としても活動し、
- 俳優
- 歌手
- 映画監督
- 映画プロデューサー
- 作詞家
- 作曲家
など、多くのシーンで活躍を広げていきました。
海外進出へ
千葉さんのカラテ映画は、欧米でもブームに。
1974年の「激突!殺人拳」は、米中南部の都市18館で封切られ、3週間でベスト5に躍り出て代表作になりました。
1992年にアメリカ映画「エイセス / 大空の誓い」に出演。
これを機に拠点をロサンゼルスへ移して、アメリカでも俳優活動をするようになります。
これは、東映の憧れの大先輩だった高倉健さんから
と言われ、その言葉に刺激を受けたのだとか。
1998年(59歳前後)に香港映画「風雲 ストームライダーズ」での演技が評価され、翌年の第18回香港電影金像奨では、外国人として初めて優秀主演男優賞にもノミネートされました。
2003年(64歳前後)、クエンティン・タランティーノのアメリカ映画「キル・ビル」シリーズに出演。
ハリウッドスターへ剣術指導も担当しました。
第30回サターン賞では『キル・ビル』で助演男優賞にノミネートされました。
ハリウッド俳優のキアヌ・リーブスは、千葉さんの大ファンで、初めて千葉さんと対面した際は「ハジメマシテ、マエストロ」とあいさつし大興奮したそうですよ!
まとめ
今回は、千葉真一さんの出演作品をもとに若い頃を振り返っていきました。
こうして振り返ってみると、本当に活躍されていたことがわかりますね。
そして何よりカッコいい!!
千葉さんの全盛期は知らないですが、本当にすごい役者さんだったことがわかりました。
そんな彼が、2021年8月19日にコロナの犠牲者に…。
つい最近のインタビューでも、「若者達に自身の経験を語り継いでいきたい」と語っていた矢先の出来事でした。
いきなりの別れに多くの方が悲しみに包まれています。
ご冥福をお祈りします。
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