新型コロナウイルス感染症ワクチン接種推進担当大臣を務め、総裁選への出馬意欲など、最近何かと話題の河野太郎さん。
そして、河野太郎さんの家系図を見ると副総理大臣や自民党総裁、伊藤忠商事の創始者など、錚々たる面々がそろっていて「華麗なる一族」と話題になっています。
河野家は戦前・戦後を通じて90年近く、一族で国政に議席を持ち続けています。
鳩山家、岸・安倍家とならぶ政界の名門として知られその一方、永田町で「総理になれない家系」とも言われてるとか。
何だか気になるワードもチラホラありますね。
では、河野太郎さんの華麗なる一族の家系図と共に、詳しく見ていきましょう!
河野太郎の家系図まとめ
まずは、河野太郎さんの華麗なる一族の家系図をご覧下さい!
凄いですね…!
すごい人が多すぎて、もはや見えづらいので以下に一覧化します。
父・河野洋平 | 元自民党総裁 |
---|---|
弟・河野二郎 | 日本端子社長 |
父方祖父・河野一郎 | 元副総理大臣 |
父方伯父・駒村秀雄 | ラジオ日本社長 |
父方大伯父・駒村資正 | ジェトロ第二代理事長、江商社長 |
父方曾祖父・河野治平 | 元神奈川県会議長 |
父方従従叔父・田川亮三 | 元三重県知事 |
父方従従叔父・田川誠一 | 元衆議院議員 |
父方大叔父・田川誠治 | 元神奈川県議 |
父方曾祖父・田川平三郎 | 元衆議院議員 |
母方叔父・伊藤勲 | イトゥビル社長 |
母方祖父・伊藤恭一 | 東洋紡会長 |
母方曾祖父・伊藤忠兵衛(二代目) | 伊藤忠商事創業者 |
母方高祖父・伊藤忠兵衛 | 伊藤忠商事の礎を作った |
母方曾祖父・本郷房太郎 | 陸軍大将 |
wikiでまとめられている人物も多く、濃すぎる家系図になっています。
まさに、”華麗なる一族”と言っても過言ではないでしょう。
祖父は副総理、父・河野洋平さんは、祖父同様、副総理も務めたことも。
2003年から2009年まで、日本憲政史上最長期間に渡って衆議院議長を務めています。
河野太郎さんの母方の曽祖父・伊藤忠兵衛さんは、総合商社伊藤忠商事と丸紅の創業者です。
伊藤忠商事と丸紅といえば、どちらも「日本五大商社」として有名です!
では、河野太郎さんの祖父や父、母方の親戚をさらに詳しく調査していきたいと思います。
河野太郎・父方の祖父|河野一郎は元副総理大臣
河野太郎さんの祖父・一郎さんは、朝日新聞記者を経て戦前に代議士となります。
プロフィールがこちら。
- 生年月日:1898年6月2日
- 出生地:神奈川県足柄下郡豊川村(現小田原市)
- 没年月日:1965年7月8日(67歳没)
- 出身校:早稲田大学政治経済学部
- 前職:朝日新聞社社員、農林大臣秘書官
戦後は河野一郎さんはあの有名な吉田茂首相と対立しました。
その後、保守合同で自民党が結成されると河野派を率いて農林大臣、建設大臣などを歴任し、党実力者の1人となりました。
しかし、河野一郎さんは「なかなか総理になれなかった」そうなんです。
その時のことをまとめてみたいと思います。
「総理」になれなかった河野一郎
河野一郎さんには総理のチャンスは2回ありました。
最初は岸内閣時代(1959年1月)。
党内対立に苦しんだ岸信介首相は、大野伴睦・副総裁、一郎氏らの協力を得るために、総裁を大野氏、一郎氏、佐藤栄作氏の順に回す政権禅譲の密約を交わします。
しかし、岸氏はその密約を反故にしました。
2度目は1964年に池田勇人首相が病で退陣を表明したとき。
その年の総裁選で池田氏を支持し、副総理兼五輪担当相に就任していた河野一郎さんは政権禅譲を期待しました。
ですが、池田氏は佐藤氏を後継指名し、河野一郎さんは失意のうちに急死してしまいました…。
政治評論家の小林吉弥氏が語るには、
「河野一郎という人は持論を譲らず、筋を曲げないタイプ。
戦前からの党人派政治家として官僚出身者を重用する吉田首相を批判し、自民党では吉田門下の保守本流と対立してきた。
結局は池田、佐藤という保守本流に総理就任を阻止された」
「おじいちゃん」とRTし話題に
2019年1月6日から12月15日まで放送されたNHK大河ドラマ第58作『いだてん〜東京オリムピック噺〜』。
「第2部 田畑政治篇」がスタートする際に番組の公式Twitterが新キャラクターの桐谷健太さん演じる河野一郎を紹介。
すると河野一郎の孫である河野太郎さんが「おじいちゃん」と引用リツイートし、話題になりました。
このツイートに、
など話題となりました。
ドラマにも出てくる最早偉人なので、そこを「おじいちゃん」というのが何だかおかしいですね(笑)
河野太郎の父親|河野洋平は野党時代の元自民党総裁
河野太郎さんのお父さんと言われてもピンとこなくても、画像を見ると「この人ね!」となる、有名な議員さんですよね。
河野太郎さんの祖父一郎さんの跡を継いだ父の洋平さん。
プロフィールがこちら。
- 生年月日:1937年1月15日(84歳)
- 出生地:神奈川県平塚市
- 出身校:早稲田大学政治経済学部経済学科
- 前職:丸紅飯田社員、ニチリョウ代表取締役社長、日本陸上競技連盟会長
- 称号:衆議院永年在職議員、経済学士、桐花大綬章
議員として華々しいキャリアの河野洋平さんですが、一郎さんと同じ“宿命”を背負っていました。
田中角栄首相の金権政治を批判して自民党を離党し、新自由クラブを結成。
その後、自民党に復党、宮沢内閣の官房長官を務め、1993年の総選挙に自民党が敗北して下野すると、野党時代の自民党総裁に就任しました。
自民党は翌年、自社さ連立の村山内閣で政権に復帰し、洋平氏は副総理兼外相に就任。
順調に見えますよね。
しかし、1995年7月の参院選で社会党が大敗し、村山首相が辞意を漏らして洋平氏への政権禅譲が取り沙汰されます。
旧田中派の流れを汲む小渕派が河野首相就任阻止に動き、橋本龍太郎氏を擁立。
洋平さんは所属する宮沢派をまとめきれず、戦わずに出馬を断念しています。
毎日新聞記者出身で洋平氏の秘書を務めた鈴木恒夫・元文科大臣が言うには、
「洋平氏は自ら総理の座をつかみにいくようなことはしませんでした。
日頃から『総理を目指すのではなく、なすべき政治を行なうのが政治家の本分である』と語っていて、理想を追い、権謀術数で権力を取るということをしなかった。
これでは総理になれるものではないと思います」
総理になりたかった訳ではないのですね…!!
親子で肝臓移植をしている
河野洋平さんは、1976年頃から重度の肝機能障害を患いました。
その後C型肝炎、肝硬変まで症状が悪化したことから、2002年に河野太郎さんを肝臓ドナーとして生体肝移植手術を受けています。
現在について河野太郎さんは、
「父は、毎日、免疫抑制剤を飲みながらも、移植手術後今日まで一度も痛みも感じないと強がっています」
と明かしています。さすが昭和の男は強いですね。
河野太郎さん自身についてはドナーになった後遺症が残っているそうで、
「一番深刻なのは、切って縫い合わせた腹筋が今でもよくつること」と話していますが、肝機能は全く問題ないとのことでした。
肝臓の移植については、こちらの記事で詳しくご紹介していますので、こちらもご覧ください。
河野太郎の弟|河野二郎は日本端子社長!
河野太郎さんの弟・河野二郎さんは、日本端子株式会社の社長を務めています。
弟さんは政治家ではなく、母方の商売人(後述します)の血を受け継いだのでしょうか。
日本端子は、1960年に資本金1億円で創業された、端子・コネクタなどを製造している会社です。
従業員が440名で、北京や香港にも関連会社を持つ大きな会社ですよね!
河野太郎・母方の曽祖父 |伊藤忠兵衛は伊藤忠商事創業者!
河野太郎さんの母方の曽祖父・伊藤忠兵衛さんは、総合商社伊藤忠商事と丸紅の創業者です。
伊藤忠商事と丸紅といえば、どちらも「日本五大商社」として有名です。
伊藤忠兵衛さんは、幼名は精一で、初代・伊藤忠兵衛の次男として誕生します。
兄である長男が夭逝したため、父・初代伊藤忠兵衛が創業した呉服店、伊藤本店を引継ぎ、伊藤忠商事、丸紅へと発展させます。
また、伊藤忠兵衛さんは、教育にも関心を持ち、徳育・体育・知育の均衡の取れた教育を目指しました。
財団法人甲南学園の理事としても活躍したすごい方なんです。
河野太郎・母方の曽祖父|本郷房太郎は陸軍大将
伊藤忠兵衛さんは、河野太郎さんの母(武子さん)の父方でしたが、母方もかなりすごい人です。
母方の曽祖父・本郷房太郎さんは、陸軍大将。
- 生年月日:1860年2月15日
- 没年月日:1931年3月20日
- 階級:陸軍大将 正二位 勲一等 功三級
日本の陸軍軍人で、軍事参議官・青島守備軍司令官や第1・第17師団長を歴任し、階級は陸軍大将 正二位 勲一等 功三級。
軍を退いてからは久邇宮宮務監督や大日本武徳会長を務めました。
1934年には、「本郷大将記念図書館」が丹波篠山市に作られました。
当初の計画では、銅像を建設する予定でしたが、遺族の辞退により記念図書館の建設で落ち着いたそうです。
その後、「篠山町立本郷図書館」へ。
2003年4月には、篠山市立中央図書館(現丹波篠山市立中央図書館)新設でなくなりました。
それまでの蔵書は分室の丹波篠山市民センター図書コーナーに引き継がれています。
河野太郎・母方の祖父|伊藤恭一は東洋紡社長
河野太郎さんの母方の祖父は、伊藤恭一さんと言います。
昭和22年(1947年)に旧制神戸商業大学(現・神戸大学)を卒業し、大建産業に入社。
昭和25年(1950年)に呉羽紡績へ転じ財務・管理部門を担当。
その後、取締役、常務取締役、専務取締役を経て、昭和38年(1963年)に社長に就任しました。
昭和41年(1966年)に呉羽紡績が東洋紡績に吸収合併されると、同社副社長となり、同社会長・相談役を歴任しました。
この間、呉羽紡績は昭和30年(1955年)、エルサルバドルに地元実業家と共に綿紡績工場を建設。
呉羽紡績が東洋紡績に吸収後この工場を基にユサ社(Industrial Unidas)を設立。
東洋紡績会長となった恭一さんは、エルサルバドル進出に際し貢献した平生三郎さんの死去に伴い、昭和48年(1973年)にエルサルバドルに50万ドルの寄付を行いました。
エルサルバドルと日本・呉羽化学(東洋紡績)との関係強化に最高経営責任者として尽力。
エルサルバドル自体の繊維事業の発展と青少年の育成に協力した恭一さんを大阪駐在名誉領事としています!
まとめ
今回は河野太郎さんの、華麗なる一族について調査してきました。
河野太郎さんは、政治家だけでなく、商売人としてもそうそうたる人物が名を連ねていましたね。
まさに華麗なる一族。
次期総裁と評判が高い河野太郎さんですが実力だけでなく、家系も申し分ないですね。
なんだか、ドラマや映画のキャラクターを調べている気持ちになりました(笑)
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