山縣亮太選手は陸上100mで9秒95の日本記録を持つアスリート。
9秒台が4人いるという逸材揃いの中、見事な走りで東京オリンピック内定を決めました!
そんな山縣選手、陸上だけでなく頭も良いとネットを中心に話題となっています。
そこで今回は山縣選手の学歴についてご紹介させていただきましょう!
山縣亮太の学歴まとめ
山縣選手の学歴は以下の通り。
- 小学校:広島県鈴が峰小学校
- 中学校:修中学校
- 高校:修道高校
- 大学:慶應大学
広島県広島市で生まれ育った山縣選手。
地元の鈴が峰小学校に通い、その後、中高一貫の広島県修道中学校へ進学。
大学は偏差値の高さで知られる慶應義塾大学を卒業していますね。
山縣選手が頭も良いと言われる所以は慶応に通っていた辺りにあるのではないでしょうか?
以下では小学校から大学までの山縣選手のエピソードをご紹介させていただきます。
山縣亮太は広島県鈴が峰小学校!異例のスカウトも
前述の通り、山縣選手は広島県鈴が峰小学校に在籍していました。
【西区】リオデジャネイロオリンピック男子4×100mリレー銀メダリストの山縣亮太選手が6日、母校・広島市立鈴が峰小学校を訪れ、声援を送る後輩の児童や地元住民を前に喜びの報告をした。
「おかえり せんぱい」「いこうTOKYO」と児童の書いたカードで飾った同校講堂で、全校児童240人と地域住民の拍手が出迎えた。
山縣選手は「鈴小で育った六年間があり今の自分がある。出典:西広島タイムス
山縣選手は元々、大の野球好きでプロ野球チーム広島カープのファンだったとか。
小学4年生の頃から野球を始めたものの、同時期に陸上をやっていたお兄さんが賞状をもらってきた際、
「(兄がもらった)賞状がうらやましくて『僕も来年その大会に出る』と」(山縣選手の父・山縣浩一さんコメント)
出典:Yahoo!ニュース
後に大会で見せた山縣選手の走りが陸上クラブ(広島ジュニアオリンピアクラブ)の目に留まり、異例のスカウト。
以後、本格的に陸上の道を歩み始めることに。
その頃から才能がずば抜けていたと当時指導していた恩師二人は語ります。
「特別早い立派な走り方をする子がおるんですよね。
それが初めて亮太君見た時です。
衝撃を受けました、わくわくしました。
上下左右に腰から上がぶれないんですよ。
腿が良く上がるしね。
スピードももちろんダントツで一番だった」
(広島ジュニアオリンピアクラブ・日山君代顧問コメント)出典:Yahoo!ニュース
「スタートをしっかり指導していく中でどんどん記録が伸びていきましたね。
全国レベルだったので(他の子とは)全然違いましたね」
(広島ジュニアオリンピアクラブ・藤本法生会長コメント)出典:Yahoo!ニュース
プロでも活躍できるアスリートは一般の人に比べて優れた素質を有しているもの。
山縣選手も例外ではなかったということでしょう。
その意味では素質を見抜き、クラブへ誘ってくれた恩師の存在が今の山縣選手を作り上げたと言っても過言ではないのかもしれません。
山縣亮太の中学校・高校は修道!
小学校を卒業後、中高一貫の修道中学校・修道高校へと進学しました。
こちらの画像は修道中学校・高校の本館壁面に用意された垂れ幕ですが、一番左側に山縣亮太選手の名前がありますね。
修道は中学・高校共にハイレベルな学力で知られており、県下有数の進学校。
修学高校は、なんと偏差値70もあるそうです!
陸上の強豪校ではないものの、東大や京大を目指す生徒がひしめく文系トップクラスの学校に籍を置いていました。
中学時代、小学校の頃以上の練習量をこなしていたという山縣選手。
「中学生の頃、練習がしんどかった」と振り返る。
小学校4年生の頃からずっと100mの選手だったが、当時は400m~800mの選手がこなすメニューをひたすらやらされていたという。出典:cycle
「短距離走に持久力は要らないのでは?」と考えた時期もあったようですが、
この厳しい練習メニューが今の自分を支えていると次第に認識を改めたそうです。
確かに短距離走において持久力の優先順位は低いものの、トップスピードを最後まで保つにはある程度のスタミナが必要なのも事実。
そうした理屈を理解していたからこそ、厳しい練習を耐え抜くことができたのかもしれませんね。
その後、目標としていた全日本中学校陸上競技選手権大会への出場を成し遂げ、高校へ進学。
高校に入ると
- 県高総体100m3連覇
- 国体少年B100m優勝
- 中国高校総体100m優勝
と素晴らしい成績を残していきます。
高校2年になると世界ユース100m4位。
メドレーでは銅メダルを獲得!
世界でも通用するところを見せつけてくれました。
当時から注目度は抜群で、テレビ出演もされていたようですよ。
高校3年になっても勢いは衰えず、県高校総体、中国高校総体で4冠達成!
県下敵無しといっても過言ではない活躍ぶりでした。
中学時代のたゆまぬ努力が形になり始めた時期と言えるでしょう。
お茶目な一面も?
最近では他の競技の練習を取り入れるアスリートも多くみられるようになりましたが、中学時代、山縣選手も少し変わったトレーニングを取り入れていたそうです。
それが車と競争するというもの。
人通りの少なくなる深夜、家を抜け出すと歩道に立つ。
リレーでバトンをもらうような 中腰の姿勢で、後ろから車が来るのを待つ。
ヘッドライトが見えて、それが近づいてきたところでスタート。
30mほどダッシュする。
インターバルを取って、また次の車が来たら走る。これを繰り返す。出典:文春オンライン
このトレーニングを取り入れた理由について本人は
若い頃は多少の無茶をやってみたくなるものですが、「車に勝てたらカッコいい」という理由で競争していたのはおそらく山縣選手ぐらいのものでしょう。
記録や頭の良さがクローズアップされることが多いものの、こうしたお茶目な部分も山縣選手の魅力かもしれませんね。
山縣亮太は慶應大学出身!
高校での多数の実績を携えて慶應大学への進学を決めた山縣選手。
学部は、総合政策学部ということで、慶應1本に絞ったAO入試で合格されたそうです。
元々自由にのびのびと勝利を目指せる大学じゃないとダメだと考えていたそう。
それが実現できるのが慶應だけだったそうですよ。
大学では、村林裕先生のスポーツビジネスのゼミにも入りました。
スポーツイベントの集客について考えたり、子ども対象のスポーツ教室で実際に指導したそうです。
ロンドンオリンピックに出場!
大学時代の陸上の成績は、
- 2011年国体3位
- 2012年織田記念1位、日本選手権3位
安定した結果を残し、2012年のロンドンオリンピックへの出場も果たしました。
山縣選手が凄いと言われるのは上記の結果もさることながら、専門のコーチがいない環境であったこと。
慶應を選んだ理由が、自由にできる環境と言っていましたし、”自分で色々できる”ということが彼の強さの秘訣だったのかもしれません。
練習メニューや計画を作るのも自分たちでやらなければいけないし、走りの課題を見つけて克服するのも基本的には自分が自分の走りのコーチになってやっていかなければならないという環境なので、そういった中で常に自分の走りと向き合える4年間だったなと思います。(山縣選手コメント)
出典:慶應スポーツ新聞会
専門のコーチが不在ということは当然、練習メニューも自分で考えなければいけません。
修正するべき課題を克服するための方法なども同様、
強制されることがない分、自主性と計画性が求められる環境だったと言えるでしょう。
一方で、自分がスランプに陥った時には、自分が何をしたら足が速くなるのかが全く見えない時期が長く続いてしまうのだとか。
そういう時に自分の走りを見てくれるコーチがいないと、スランプから抜け出すのも難しいようです。
自由のメリットとデメリットを体験しているからこそ、誰よりも己の体を知り、9秒台を叩き出せるまでに成長できたのかもしれませんね。
自身の状態を常に把握し、それに合った練習メニューを作ることのできる山縣選手。
そう言った意味でも、自立していてとても頭がいいことがわかりますね!
学生らしい思い出も!
慶應大学時代は、部活の同期と仲が良く、自転車旅行に行くことも。
よく思い出すのは瀬田川を含めた競走部の同期の仲間たちと、愛知県岡崎市まで自転車旅行をしたことです。
愛知県まで自転車でってかなりすごいですよね。。
途中、箱根を山越えする際、雪が降ってきてかなりキツかったとも語っていました。
仲間に恵まれたからこそ、今の山縣選手がいるのかもしれませんね。
まとめ
以上、山縣選手の学歴についてでした。
「一流の選手には一流の指導者がいる」。
そう言われていた時期もありましたが、山縣選手のように頭の良い選手なら独力でトップアスリートになることも十分に可能。
その意味で新たなスタイルを見せてくれた選手と言えるでしょう。
コロナの影響で多くのアスリートが調整に苦しんでいる今。
自己のメンテナンスを欠かさない山縣選手ならメダルに手が届く可能性も十分にあり得るのではないでしょうか?
東京オリンピック本番での活躍に期待したいですね!